利き手を失うということ

はじめに

私自身のことしか書けませんが、病巣の部位や大きさ、高次脳機能障害の有無や種類、障害の程度も皆違うし、その人の家族や職業、年齢などのバックグラウンド、そして考え方や性格など複雑に絡むので、これが正解ということは言えないのものだと思います。
私にとっての利き手は、筆跡など私そのもので、何をする時も実現するために当たり前の存在で、失うことなど考えたこともありませんでした。
喪失感は凄まじく、現実を受け止められず、現在まで来てしまっていると思います。元通りとはいかなくても、少しでも何とかしようともがいています。
時には、自己受容出来ないダメな患者と叱責されましたが、その言葉に心が萎えなくてよかったと思います。
麻痺を回復させるということが、私の生きる目的の一つになっていますが、その代償であきらめなくてはいけないこともあります。人それぞれ生き方は自由で、色々な選択が有ると思います。
ここでは、心の揺れや感じ方を中心に書きたいと思います。具体的な取り組みについては、運動麻痺克服 上肢に書いてありますので、良かったらご覧ください。

利き手ではなかった左手

入院中は歯磨き、トイレ、入浴、食事、着替え、靴下を履くなど、誰からも指導も受けず、当たり前のように左手一本でこなしていた。
しかも利き手どころか邪魔にしかならない、右手の面倒も見なければならなくなり、左手にしてみれば、「急にこき使いやがって」と怒っていると思う。
良く考えてみれば、利き手ではなかっただけで、思いのままに動く。少しだけ怠けていたというより、役目が違っていただけだった。
時々手が一本では出来ないなと思うことも、ちょっと両手ですることの常識を取り払い、片手ならどうするか、工夫を考えれば大概のことは何とかなると思います。
例えば入浴中タオルを絞るには、手すりなどにタオルを引掛けて片手だけでひねれば良いし、ペットボトルのフタを開けるには両足の股ではさみ、左手でキャップを回すなど、入院中はほとんど困らなかった。
唯一、血圧を測るとき、麻痺している手では正確ではないということで、左手を測定するのだが、セラピストと試行錯誤しましたが、一人ではベルトが締められず、妻に役目を頼んだぐらいだった。
片手だけでも日常生活の9割以上は、問題なく過ごせることはありがたい反面、麻痺した手への愛着が失われていくことに、繋がってはならないと思いました。
50年以上いい時も悪い時も、一緒に頑張ってきて、まだ体に付いているし、もうお前はいらないと割り切れるほど、軽い存在じゃなかったからです。

利き手変換

発症から6ヶ月頃退院し、同病院の通院リハビリを続けていた時、担当OTさんから「もう障害が残るのは理解できますよね。利き手変換のリハビリにしましょう。」と提案されました。私は「左手は自分でトレーニング出来るので、麻痺した右手のみのリハビリを続けて欲しい。」とお願いしたところ、OTさんの顔が曇ったのを覚えています。
その頃はリハビリに関する私の知識はほとんど無く、後に分かったことですが、6ヶ月もリハビリをして、機能改善が良好でないと実用手になる見込みがないと判断され、良い方の手だけで生活を取り戻したり、復職したりするべきで、麻痺手にこだわりすぎるのは、患者の為にならないという考え方です。
確かに合理的な良い選択だと思いますが、それ一択しかないのが納得いかない。自分らしく生きる為に、選択肢は多い方がいいに決まっている。
利き手変換のリハビリを受ければ、きっと片手で生活する工夫や自助具などの紹介もあったと思いますが、マニュアルや冊子にまとめてくれて頂ければ、その日から助かったに違いありません。又、高次脳機能障害などで、トレーニングが必要な方もいらっしゃるのも事実だと思います。
患者の障害の程度や本人や家族の希望に適した、柔軟なリハビリが受けられる日が来ると願っております。

贈り物の時

発症から2年位は、易疲労性や不眠が酷く体調や思考力が突然おかしくなって、空調の効いた静かな室内で横になるしかなく、まるで弱々しくデリケートな環境でしか生きられない、絶滅危惧種のようだった。
本人が社会復帰したいと願っても全く無理で、まずは普通に暮らせるということが、一番の目標となってしまいました。もしも、そういうことがなく復職出来たとしたら、働くことが精一杯で、麻痺を回復させようと考えられず、日々の生活をこなすことに、振り回されていたと思います。きっと心が荒れていたと思います。
脳卒中がくれた時間を、自分や家族と有意義に送るかを中心に考えると、起こる嫌な出来事も有難くとらえる事ができ、今は何が大事なのかに、迷わなくなったと思います。
主治医から「あなたの脳梗塞の場所なら、呼吸が止まって死んでいたって当たり前なのよ。だから良かったと思いなさい。」と言われました。
一度死んでいたと考えれば、私にとっては生きている時間の全てが、プレゼントです。
せっかく頂いたので、大切に使いたいと思います。

麻痺手の岐路

手の回復は難しいと、多くのセラピストから言われ、知人の中には全てわかっていると言わんばかりに、脳卒中をやったらもう終わりで一生良くならないと、雄弁に喋る人もいた。
本人もなす術がなく、障害者になったという思いから、他人の目が気になり消極的になり、外出も気が重くなってしまう。
そして少しぐらい動く手では、役に立たないばかりか、イライラするので使わなくなってしまう。挙げればきりがないほど、麻痺手を諦めてしまう理由があります。
そんな逆風が強い中、逆らって前へ進むには、何となくという理由では、誰も絶対にしないでしょう。何としても行きたい目的地、信念や理由など、自分が危険を冒してでも行く価値があると、本気で判断する必要があると思います。
発症から1年以上が経って、障害が残っている手を、実用手まで回復させるには、本人の考え方や努力が主になり、回復に対する知識や観察力など獲得した方が、自分自身を楽にすると思います。しかし、簡単なことではなく、その道を貫くには、天職のような考え方をするようなものです。
まずは良い方の手を中心に生活を立て直した上で、麻痺手への取り組みをするか、諦めるか、自分らしい判断するための情報が、決め手になるかもしれません。

選択

手だてがわからないうちは、ただの願望だけで麻痺を治したいと思っていたが、その方法が少しずつ見つかると、本当に良くなるのか自分の体で実験して、判断し続けています。
ちょっと前までは、麻痺は良くならないという考え方が、支流であったようですが、脳神経などの研究が進み、論文や書籍に書かれる新常識は、私にとって明るい未来を示しています。
またネットやユーチューブ動画も、色々な情報が氾濫していて、自分にとって良いか悪いかの選別も、重要になると思います。
基本にしている考え方があります。私にとってプラスにならない情報は無視します。
どんなに些細なことでも、私にとって良い情報だけ注視するという事です。
それは当たり前だと思う方が、多いと思いますが、麻痺は脳のどこを脳卒中によって壊され、こういうメカニズムによって良くならないと、知識をひけらかす方にしか、私は会ったことがないと言っても、良いのが事実です。脳卒中の後遺症が改善しないということを、どんなに詳しくとも私には無意味です。どうしたら回復するかしか、興味がありません。
どんな情報も本当のことだと思いますが、いつの間にか自分に都合が良いことだけ選んだ結果、麻痺は回復させられるか、難しいので共に生きようか、色々な結論が存在するのだと思います。どんな結論でもその方にとっては、自分らしく生きるための、懸命な良い選択だと思います。

脳の可塑性

いつの間にか、左手に利き手の座を奪われてしまったように思っていたが、練習で上手になっても私の字にならない筆跡や、少し細かい作業をしようとすると、身構えなどしっくりこないし、両手でないと使いこなせない道具や運ぶ物など、右手も補助手、可能なら準実用手まで回復すると良いと、感じることが多くなってきました。その上、左手はバネ指など、使い過ぎの悲鳴を上げてきました。右手を廃用手と諦める、私の選択肢はない。
脳卒中によって、脳が壊れたため麻痺してしまったが、右手そのものが壊れたわけではないので、脳を何とかすれば良いと思いました。
一度壊れてしまった脳細胞は、再生しないようだが、脳は適応能力が優れており、残った脳細胞どうしで、ネットワークを再編いることもでき、バックアップする予備のネットワークも存在するようです。それを引き出すには、自分にとって意味のある行為を成し遂げようと、繰り返しトレーニングすることで、脳は新しく構築するということです。それを脳の可塑性と言います。
心強い事実がわかり、自分自身が主役となり、回復させることが出来ることに、力が湧いてきたのを覚えています。

私の手のトレーニング

手は片手でも生活するのにあまり問題ないため、麻痺手を必要としない方も多くいらっしゃいます。足は歩くには両足を使わなければ成り立たないので、麻痺足をどうしても必要とします。足のリハビリは自然に進むはずです。
CI療法とは、良い手を使えないように固定してしまって、麻痺手を訓練するという方法で、成果が上がっていると聞きます。又、一日15時間ぐらい数週間、集中的に訓練するなどの取り組みもあるそうです。
麻痺手は積極的にリハビリした方が良さそうですが、私の場合は後遺症で疲れやすい上、少し根を詰めただけでも不眠になってしまい、リハビリどころではなくなってしまうため、あまり負荷を脳や体にかけず長く続けられ、自分のしたいことから取り組むように致しました。
遠回りしているようですが、私にとっては結果的に、近道になったと思います。
CI療法のように良い方の手を拘束までしませんが、なるべく麻痺手を使うようにする程度です。むしろ良い手は、手本として良く観察し、正しい動きを学ぶために、共に作業しました。
ハサミなど右手用(左手用もあります)に適した作りになっているものや、両手で使う前提のものなど、日常生活の中で私の利き手(麻痺手)を復活させていくことは、自然の流れです。しかし、意識的に使う努力を心がけないと、思い通りに動かない上すぐ疲れてしまい、使い物にならない邪魔物になってしまうため、使いたく無くなると思います。手の回復の鍵は、日常的に工夫して使い続けることだと思います。
利き手を取り戻すという大きな目標さえ見失わなければ、途中の色々な困難は、乗り越えることが活力になっていくと思います。

使わなければ機能を失う

麻痺した手は役に立たないだけでなく、自分の手だという概念すら失っている場合もあります。片手を失っても大抵のことは何とかなってしまうからです。
必要とされないと機能レベルは増々低下して、最悪廃用手となってしまいます。
少し動く程度では手としては全く役に立たず、イライラするばかりで邪魔なものでしかない。手は複雑に器用に動き、思い通りに目的をこなせないとならない。
本当は麻痺からの回復は、時間をかけ、徐々にしか起こらないのに、最初から高度な機能を求められるので、すぐに見捨てられてしまう傾向があると思います。
それが大きな落とし穴となって、麻痺した手は忘れ去られてしまい、使おうとすら思わないので、機能を失くしてしまう。
もっと恐ろしいのは、脳のネットワークは不使用に伴い減少してしまいます。
本人はなんの苦しみも無いので、その事に違和感がありません。自ら回復を絶ってしまったことになります。
リハビリの考え方として、発症から半年も過ぎると麻痺は固定されてしまうので、残された機能の訓練で、日常生活を早く送れるよう患者も促され、麻痺手なしで生きていく事を選択し、なんの疑問も感じず多くの方が、生活を取り戻していきます。
その方が思うようにならない手に、いつまでも悩まされることから解放され、新しい生き方に向かっていけるという良い面もあると思います。しかしそこには、努力次第で使える手になる可能性の話は、されずにいることが残念だと思います。
私の体験では、麻痺手に積極的なトレーニングを行わなくても、自分の手だと当たり前に思い、少しでも動けば手の役立て方を考え、使う努力をしていれば、段々と便利な手へとなっていくはずです。
機能レベルに合わせて、無理なく出来る範囲で続けられることを、生活の中に取り入れていけば、日々の生活そのものがリハビリになると思います。今、少し頑張れば出来そうな課題に向かって、小さな成功体験をコツコツと積んでいくことが、生きる張りになっていくし、そんなに難しく考える必要はないと思います。

麻痺手の活用

麻痺手のリハビリを続け色々な部位が動き出し、感動し喜んでいたのも束の間で、思いとは裏腹で、なかなか元通りにならない手に、困惑してしまうことがあると思います。
少しでも動くなら、どのように役立たせるかという、アイデアが欲しいと思います。
例えば、握ったまま開けない手でも、指と手のひらの間にノートなどを挟んで、持ち運べる手になったと、今の段階を楽しむようにしたり、利き手ではなかった手の文字練習の時に、紙が動かないように、重り代わりに麻痺手を使うなど、補助手として役立てるように考えると、気が付かないうちに色々な刺激が入り、回復には大事なトレーニングになると思います。
麻痺手へのトレーニングはリハビリ場の中で、セラピストの指導のもとのみという観念になってしまって、日常生活にどう使うかと、考えない方に多くお会いしましたが、本当のリハビリの意味を取り違えていると思います。受け身でしているうちは、ただしているだけで、しないよりまし程度で、つまらないはずです。
自分自身で求めて、その価値を評価するのも自分でなければ、本気になれないのではないでしょうか。少しでも動く手ならば、ちょっとした工夫しだいで、生活の中で便利に使えるはずです。
使うことが、手の回復には中心的なものになり、使えば使うほど脳神経も活性化し、手の機能を取り戻すことに繋がると思います。
考え方として「思うように動かないのでイライラするから使わない」のか「思うように動かないのは当たり前で、使い続けたら必ず使いやすくなる」と同じ現象も真逆のとらえ方になると思います。人間は素晴らしい能力を秘めているので、引き出すのは己の気持ちしかないと思います。

モチベーション

麻痺手をなるべく使うことは回復には必須になるが、色々な克服できないと思われる困難にぶつかります。それらに負けないためには、回復していくのを本気で楽しめることが、モチベーションを高めていくことになると思います。
それは学生時代の部活動のような感じに似ていると思います。
始めたばかりは誰でも下手で当たり前ですが、時が経つほど個人差が生まれてくるが、もっと強くなりたいとか、上手になりたいという願望に向かって、自身を追い込んでいけて、壁にぶつかっても乗り越えるプロセスを楽しめる人は、有意義な時を過ごせると思います。
麻痺を克服させるには、忍耐や努力がいりますが、微妙な変化を喜びやモチベーションに変えられる人は、自分の納得のいく成果が出るはずです。

発症前の成功体験は負の財産?

私は体育会系の発想が中心にあって、発症前は人生の基本にしていました。
きっと脳卒中の後遺症も、自分の努力次第で乗り越えられると信じていましたが、通用しないばかりか、後遺症のことがわからない内は、かえって挫折を味わう結果になりました。
自分の経験など役に立たない、とてつもなく強い相手にぶつかったと自覚しました。
例えばトレーニングも疲れてから勝負で、得られることが多く、そこを大事にしていましたが、麻痺手には全く逆の反応で、かえって悪くなってしまいました。
自分が考えるより遥かに、非力で耐久力が無く、あっという間に体力も思考力も限界になってしまう。それは大変苦痛で、何もしない方が体調は良く過ごせました。
麻痺の正しい知識がなくては、発症前の経験など、負の財産でしか有りませんでした。
少なくとも鍛えるのではなく、手の機能を整えるようにしたり、再学習させることでした。
今、まったく出来ないことや、気が乗らないことは、脳から拒絶された感じで、めまいなどが酷くなり、やりたい楽しいことでも、長く繰り返していると大変疲れる上、障害者の典型的な動きが強くなっていく。
体の緊張が強くなって、変な動きが出てきたらすぐ終わりとし、休んでから別のトレーニングとか、リラックス出来ることを、取り組むようにしました。悪い動作を覚えるのを嫌い、良い動作をなるべく再学習させた方が、効率が良いのもわかりました。
その間も手首、肘、肩の関節が一つの手として連動し、支持するには?など試しながらです。
トレーニングと生活することの境は考えずに、生きることがトレーニングのような思いだったと思います。しかし根気強いと思いますが、他人からはしつこいと思われると思います。
どんなに失敗しても、試行錯誤を繰り返し、何とか良い答えを出すというのも、自分の築き上げた性格です。それが回復を支えているのも事実です。
脳がダメージを受けた場所や範囲、年齢など、回復には関係するようですが、発症前の生き方や性格、経験なども大きな要素となるのではないかと思います。

悪い運動(共同運動)

脳卒中の後遺症で、典型的な動きが起こります。
例えば、物を取ろうとすると手首、肘、肩が曲がり、肩が持ち上がる。不自然な形になるが、やっと動いている内はどうにもならない上、これを生じないようにしても動かせない。
使える手を獲得する過程で、避けられないことだと思います。
セラピストの中には、悪い運動として扱い、嫌い、止めさせようとする方がいますが、患者からすると動かすのをやめろと、言われたのと同じことです。
癖として悪い動きを身に着けてしまうのも問題ですが、良い動きを獲得するには、むしろそれを使う必要があると思います。
その動きが目標でなく、人間の自然な動きを取り戻す過程だと考えて、正しい動き方にするにはと、試行錯誤を繰り返して修正することで、段々と納得のいく手に、蘇っていくと思います。そこへ導いてくれる方と出会えるのは、ラッキーなことですが、基本的には月日が長くかかることや、感じをつかむのは自分なので、自分なりの努力は必須になるのは、間違いないと思います。手本は良い方の手が教えてくれます。

筋トレは必要か?

私は、基本的に筋トレはしませんが、筋トレも脳卒中の後遺症を良く理解し、適切なやり方であれば効果は有るはずです。
麻痺手は筋肉がやせ細ってしまっていますが、筋肉を動かす適切な指令が脳から届かないため、筋肉に刺激が入らないのが原因なので、手そのものは問題ないはずです。
良い方の手は力まずとも、やりたい通り動きます。そういうことを再学習する間には、動かすことそのものが、筋トレだと思います。
手首、肘、肩が一つの繋がりになっていない内に、必要以上の負荷をかけることは無意味だし、ケガに繋がるリスクになると思います。例えば肘が曲げられるようになったといって、その運動ばかりトレーニングしていたとしたら、曲げる力は付くかもしれないが、余計に伸ばせなくなってしまうはずです。力はつくが使いにくく、手の機能は悪くなってしまうでしょう。むしろ出来ない運動に、取り組むべきだと思います。
一般的には手は屈筋(手を握ったり、肘を曲げる筋肉)に力が入ったままで、伸筋(手を開いたり、肘を伸ばす筋肉)を動かしにくいため、肘が曲がったままになった、典型的な肢位になることが多いと思います。
例えば健康な高齢者は、筋トレなどしなくとも、手は普通に使えるのは当たり前なはずです。
手の健康を保つために、何かしている人はほとんどいないはずです。実用手くらいの機能を取り戻してから、必要に応じて筋トレを、始めるくらいでよいのではないかと、私は思います。

めんどうくさい?

脳卒中でこんな障害を負ったので、もうこの手はどうにもならないと思ったとたんに、回復は終わってしまうと思います。
修理する感覚で、人間は壊れた部品を取り換えることは出来ないという考えだと思います。
麻痺を克服するというのは、「修理」するのではなく、発達させ再構築するという改善することで、新しく生まれ変わるという考え方だと思います。
例えば、古い自動車が故障してしまい部品を交換すれば直るが、自動車の価値は10万円しかないのに、修理費は30万円かかるので、廃車にすることにした。と同じではマズイと思います。
自動車は新しく買い換えるが、人間の体はそうはいきません。しかし赤ちゃんのように発達することは、脳の持っている能力を引き出せば可能です。
関心や興味のあることは、覚えも早く上手になるはずです。自然に治る体験しかないのが当たり前で、自分で望んでトレーニングによって脳を治すなどと、理解出来る人は少ないはずだし、「そんな面倒くさいこと出来るか。」と言われると思います。でも元の体に戻りたいのは、皆同じではないでしょうか。
赤ちゃんは誰に教わることも無く、自己流で色々な能力を手に入れます。小学生ぐらいまでは、一般的にはその年齢の発達具合は、大差なく成長するのは普通です。
発達することを諦めたり、面倒くさいと本気で思う子供はいないと思います。

本当に利き手を失った?

発症3~4年頃、実感したことがあります。それは細かい作業などをやろうとすると、長い間利き手だった右手(麻痺手)でないと、受け付けないということです。
私は30年間位、自動車にコーティングを掛け、カーフィルムを施工する仕事をしていましたが、発症したのがきっかけとなって廃業しました。家族の自動車にタッチペンをさしたり、フィルムを貼る機会があり、左手(良い方の手)でこなそうとしたのですが、身体が作業することを受け付けなくて困ってしまった。
不自由な右手ですると、しっくりと馴染むのです。発症前のようにプロとしての完成度にはなりませんが、右手でないと作業に取り掛かれないという不思議な感じです。
作業する姿勢、目のやり場、手を動かす感覚など、左手でやろうとするとどうにもならない違和感で、取り掛かることさえ出来ない。
長い年月をかけて洗練した技量は、脳に記憶されていて、ついこの間利き手代わりになった左手では、役立たないということです。麻痺して器用さは失ったが、感覚は本当の利き手であった、右手にしみついている。
左手も月日をかけて訓練すれば、そうゆう作業も出来るようになるでしょうが、その分右手(麻痺手)を訓練した方が、色んな意味でメリットが有りそうだと思いました。
このことは単に利き手を失ったのではなく、私の生きざままで失ってしまったと感じました。でもそんなに落ち込んでいないのは、何とかなりそうだと本気で考えられるようになり、まだはっきりしない未来も少し見えて来たからです。

手は好奇心旺盛

発症6年頃になると、実用手といっても差し支えない程度まで、改善してきました。
だいぶ緩んできましたが、体を支えたい時などは、手のひらが握ってしまう。早く腕を伸ばそうとすると、肘が曲がろうとする。急に手を使う時、とっさに右手(麻痺手)が出ない。など改善途上の部分も含めて、自分の手として使えるという感じです。
手の役目は必要に応じて、意識して使うことがほとんどなので、欠点を理解して、注意しながら使うなら、大きな問題にならない場合が多いと思います。
発症前と同じ手にするには、まだまだ相当な時がかかりそうですが、このまま生活を送っていても、改善し続けると思います。
私の場合は、少し難しそうなことや、新たなことにトライすることが、楽しくトレーニング出来る上、手の機能改善のきっかけに繋がりました。足りない動きを補うための工夫や道具などを考え、試すことも、やる気に火をつけました。
手は元来、好奇心旺盛なものではないかと思います。

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