脳卒中でなくしたもの

はじめに

突然、脳梗塞で倒れて、何がなんだか心が乱れている中、今後どのように生きていくのか、いろいろと、考え直さなければいけないことに、直面いたしました。しかも、待ったなしの決断をしなければならなく、脳も後遺症の影響で、正常に判断できるか、自信がありませんでした。
しかし、複雑で他人に相談できないほど、デリケートな問題のため、孤独に、自分にとって好ましくないことも、決めなければなりませんでした。
そんな時、少しでも賢明な方向へ舵を切ろうと、微かでも手がかりが欲しいと、探しましたが無駄でした。答えはこれが正しいなどと単純なものでなく、その人の立場、考え方、価値観などで、無数に存在するものだろうし、同じ人でも、時と共に変化するものだと思います。
私自身も、全てをさらけ出すほど、勇気がありませんので、お気軽な気持ちで、見て頂ければと思います。

仕事

廃業

私の本業は、自動車にコーティングやフイルムを施工する自営業で、30年近く続いていました。リハビリ病院でセラピストから「仕事をどうするのか?」の提案がありましたが、自分の麻痺を治そうということに、一心不乱に取り組んでいた私は、今は聞かないで欲しい、避けて通れない、現実に引き戻す、苦しい質問になりました。
当然、仕事は続けたいし、店を可愛がってくれているお客様も大勢いる。しかし、その仕事は繊細な感覚が必要で、かつ重労働で、健康であっても、誰でも務まるものではないのは承知している。セラピストは、ぜったい不可能なのはわかっていても、本人が決めるのを待っている、というスタンスだろうと思います。
セラピストの一人は、「奥さんを使って仕事が出来ないのですか?」などと簡単に言うが、そんなことをしたら、思うようにいかない仕事やお客様とのトラブルは間違いなく起きる上、それを承知で私がしたら、コツコツと積み上げた信用を、踏みにじることになる。何より不幸になる選択だと思いました。
又、長男も「長く続いた店の名を無くすのは、もったいないから、おれが継ぐよ。」と言ってくれたが、私がやりたくて、大好きで、仕事は楽しくて仕方なかったので、多くの困難など気にもせず続けられたが、おまえの好きな仕事をするように、私の仕事は、私一人で完結するからと、有難い話だが断りました。
あまりにも仕方ないとはいえ、大事な決断をするには、心の整理が出来なすぎる。
私の人生は、いい事も悪いことも起伏の波が激しいと思っていたが、想像したこともない運命に翻弄され、落ちていく感じが恐ろしかった。リハビリ病院退院前日に決めましたが、なぜか涙が出てきました。
現実を直視し受け入れ、それに則した生き方を、一生懸命にしていくのは自然な流れで、逆らってもいいことはないはずだと思います。そして、受け入れがたい現実は、誰でも経験していることを思い出して、それと比べて自分に起こっていることなど、たいしたことはないと思えば、あまり重く考えなくて済むと思います。

やらねばならないこと

リハビリ病院を退院すると、廃業を決めたので、お借りしている店のことを、大家さんと話し合うため、真っ先にお伺い致しました。病院に大家さんが、お見舞いに来てくれた時、「半年ぐらいかけて、ゆっくり体を治して、あなたによく合っている仕事だから続けて下さい。」と温かい励ましを、頂いておりました。私もそのつもりでリハビリを頑張ってきましたが、仕事を出来るような体に戻らなかったのは、誰が見ても無理と、はっきりとわかりました。
あと3ヶ月の時間を頂いて、お店をきれいにして、お返しすることを約束致しました。
私と妻2人で、コツコツと片付けるつもりだったのですが、私の体調が悪すぎて、思うように進まなかったので、長男やその友人の力を借りて、どうにか約束の日までにお返しできました。
それと同時に、入院中、田畑の雑草が放置したままなのを、何とかしなくてはならなかった。発症前は、店の仕事の合間に私が管理していましたが、家族では手に負えないようで、私がするしかなかった。
発症前は6枚ある大小の田畑を、ハンマーナイフという草刈機で、2時間もすれば全て回れましたが、真夏の炎天下の中、体調が悪い上、片麻痺でハンマーナイフを再低速にしても、付いていくのもやっとで、クラッチ操作も左手だけでするしかなく、一日1ヶ所を目標にやっとの思いで行いました。病院関係者にそんなことしているのがわかったら、即、やめさせられることだろう。
しかし、田畑で作物を作っている他の生産者に、迷惑を掛けることはしたくない。
大病したうえ、田畑を荒らし放題にしていたら、何を言われるかわからないし、田舎で生活するには、避けて通れないことでした。
退院後は、自分の体では厳しいと思うことも、そこで生きていくには、やらなければならないことを、呪ったこともありましたが、今考えると、必死で体を動かしていたことが、その時は苦しかったが、私の為になったと思います。自分の心の叫びが、こんなに具合悪いのだから、じっとしていろと言っていましたが、その通りにしていたら、寝たきりまっしぐらだったかもしれません。

働ける喜び

50代前半で無職になってしまったというのは、仕方ないと割り切るには、中々出来るものではなかった。未婚の息子が2人いるので、父が無職ではマズイ。
易疲労性はひどく辛く、片麻痺で体も使い物にならない状態で、どうにもしがたいが、最低限、介護になって家族の負担にならない努力を、しなければいけないと思いました。
発症から1年半ぐらいは、廃人のような生活を送ることしか出来ない自分が、嫌でしょうがなく、何とか抜け出そうともがいていました。
そんな時、家族に少しでも気持よく過ごしてもらいたいと、庭などを整備しようとスコップで穴を掘ろうとしても、出来なくなってしまっていた体を補おうと考え、古い小型ユンボを購入しました。手は少し動かせれば操作は意外とストレスなく動き、不自由な体と思えば、100人力でした。
それからは、何とかしたいと毎日眺めていた所を、次から次へと片付けることが出来ました。
台風の被害が出た時などは、ユンボが活躍しました。
これに味をしめ、道具や機械を必要に応じ、適した物を手に入れては使いこなすことで、こんな体では不可能と思えたことでも、やりたいことを実現することを続けています。やらなければいけないことではなく、自分がやりたいことが出来るのが、本当の意味で、働けることの喜びを知ったのかもしれません。

野菜作りは失敗ばかり

自分の健康を取り戻す為にも、食べるものは大事だろうと、自ら野菜を育ててみようと思いました。また、田畑の管理だけではもったいないので、耕して有効活用しながら、体の回復にも繋がらないか?そして、生きる張りになるだろうし、農業という肩書も使えるなど、多くのメリットがあったため、少しずつ行動に移しました。
最初に、300坪ほどの畑だった所から手を付けたのですが、私の両親の代から荒らしていた元畑は、木が伸び放題になって陽が差さずに暗く、又、耕したことのない畑にはカヤなど幾ら刈っても生えていて、畑にするには思いもよらない苦労をすることになりました。
木を切るために高枝切チェンソーをリュックサックに詰め込んで、担いで1㎞弱離れた畑に歩いて到着すると、体力が尽きてしまい、木を切る目的は出来ず、休んでから帰るという日もあったくらい、半年以上かかってしまいました。又、トラクターで耕すと、カヤの根などが畑の表面にいっぱいになって、枯れた様に見えたのですが、そこから芽を出すという、生命力の強さには驚きました。
月に2~3度耕すこと1年くらいしたので、そろそろジャガイモでも植えてみた所、小さなジャガイモばかりしか出来ない上、カヤがジャガイモに刺さっていたのを見て、甘く考えていたことを痛感致しました。
又、元田んぼだった所に、いろいろな種類の野菜を植えて、試したところ、収穫間近に台風がやってきて、排水が悪いため水没してしまい、全滅になるなど、まるで、今の私の状態を象徴するようで、何をやっても失敗に繋がってしまいました。
しかし、私の体力は少しずつ付いていったし、汗をかくというのは気持ちのいいものでした。上手くいかない事よりも、リハビリ以外に打ち込めることがあるというのは、心の支えには十分でした。

自分の居場所

発症2年過ぎ頃になると、自宅と畑を中心にリハビリやリラックスする場所として、生活を作り上げようと模索し始めました。
川、鳥、虫、自然など、暖かく私を包んでくれて、いろいろと目に飛び込んでくる些細なことが、生きる力を湧きあげてくれました。その中で野菜作りができれば、今の自分にはステキな時を過ごせると、楽園を作るような感じだったと思います。
野菜作りをいざやってみると、ド素人の試みとして、興味のある種類の種を買って、蒔き、水やりをするくらいの知識しかなかったので、いろいろ挑戦してみたら、なぜか発芽しない野菜や上手く育たない野菜が多かった。土のせいか私の作業そのものの問題なのか、試行錯誤するのもおもしろかった。
その中で、長ナスが豊作になり、家族だけでは食べきれないほど毎日採れてしまい、発症後から会うことが出来なかった友人の所へ、挨拶がてら手土産として、持っていくことが出来ました。想像していたより元気そうな私を見て、喜んでくれたり、驚いた様子の人など、反応はさまざまでしたが、社会に戻るためには良いトレーニングになる上、生きる張り合いも出ました。
その年のナスは12月過ぎまでよく採れて、手のひらにナスの皮の紫色が付くほどまでに頑張ってくれて、生命力の強さを感じさせてくれました。

免許証

リハビリ病院入院時に、運転免許証は停止されたことを、OTさんから説明され、「ただ病気をしただけなのに、なぜ?」とショックを受けました。
最初は割りきれない思いもありましたが、冷静に考えれば、脳にいろいろな障害を負った者が、車を運転したら凶器そのもので、重大な事故を起こしかねない。当然な処置だと思うし、私を守ることでもあると、納得出来ました。
時間がかかっても、正式な方法の上で、自分の自信を取り戻すことを目標に考えなければいけない、重要なことだと思いました。そのプロセスは「免許証再取得」に記してあります。
例えば、部屋の鍵をなくしてしまったと思ったが、見つかったという単純なことと違って、運転をする資格があるのか、必要性があるのかなど、いろいろと真剣に見つめ直し、自分にとっての価値を再認識したうえで、覚悟を決めて取り戻しに行くことだと思います。
私にとって良い経験になったし、ハンドルを握ることの責任を、重く受け止めることになりました。

大切なもの

私が退院すると、知人が宗教勧誘にやって来ました。倒れる前は宗教のことは、一言も聞いたことが無い人でした。
又、友人の一人はくだらない理由で、多額の借金を頼みに来ました。
2~3人の人だけではありますが、脳卒中になったことに物凄い偏見をもち、私をさげすんだ扱いをする人もいました。
確かに、そうゆう輩を引き付ける要因に、私がなってしまったので、仕方ないのかもしれないが、このままでは自分や家族を守る、私の役目は果たせないので、一刻も早く元の自分に、戻らなくてはいけないと感じました。
「渡る世間は鬼ばかり」というドラマの題名もありましたが、そうゆう人達に対しては、弱った自分を見せるよりも、少し生意気な障害者になる方がまだましのようで、寄り付かないように、追っ払うことに致しました。
今までと変わりなく付き合ってくれる方達には、改めて感謝いたしますと共に、人間性の素晴らしさにも、感服致しました。
悪い時には、悪い出来事が重なるもので、自分にとって好ましくないことをするからと言って、他人を変えることなど出来ないはずです。逆境の中、自分の心を保つのはなかなか出来ることではないと思いますが、コントロール出来るのも、自分自身でしかないと思います。

自信

元々、自信なんて、ちょっとした言葉やちょっとした失敗で、簡単になくなってしまう、頼りにならないものと思っていました。
しかし、コツコツと積み上げた信念、信用や信頼、長年かけて鍛えた体や技術などは、ちょっとのことでは揺らがないと思い、真面目に取り組み続けてきました。
脳卒中が、全てを奪っていったと感じましたが、今の自分が、障害を克服しようと努力し続けられる原動力の、源となっていると感じています。
自分にとって価値のあることが、思い通りにならないことや、不可能と思えることに挑戦し、試行錯誤して、答えが見つかるまで粘り強く続ける私は、他人からしたら無駄、疲れる、そんなのやれるかと、見えると思いますが、私には当たり前の、心の燃やし方です。そういう心までなくしていたならば、今と違った障害者としての人生が、待っていたのかもしれないと思うと、現在の自分に、少しは納得できる部分もあるし、もう少し、もがいてみようと考えています。
それは、なくしたものを見つけに行くというよりも、新しく、どう生まれ変われるかで、はっきり見えないが、ぞくぞくするものです。
人それぞれ多様な思いや考え方などが普通で、個性は尊重されるべきだと思いますので、自分らしい生き方を見つけるべきだと思います。

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