絶望と出会い
51歳のオヤジが突然脳梗塞になり、ある意味迷子のようにリハビリ病院に流されてきました。自由を失ったのは身体だけでなく、それまで築いてきた人生そのものでした。
その時は、自分の思考や想像力を超えてしまい、まるで夢でも見ているかのような、現実離れした風景を、呆然と見ている私がポツンといました。
病室へ案内された時、5、 6人のスタッフを紹介されましたが、その中に私を導いてくれることになる主治医(美人女医)がいました。
その時は、私にとって大切な出会いになるとは、思いもよりませんでした。彼女こそが、私の人生に大きな影響を及ぼす、キーパーソンとなったのです。
彼女は、リハビリの様子や病室にもしょっちゅうやって来て、患者を鋭く観察し、人間性や生き方まで配慮して、医師としての患者との関わり合い方を重視していました。
内科医であり、リハビリ医でもあったため、医療だけではなく、患者の将来まで考慮した対応をして頂けたと感謝しています。
常識の破壊
「真面目にリハビリを、人の何倍も努力すれば、元の世界に戻れるはずだ」過去の成功体験に縛られ、焦っていた私を呼び寄せ、「あなたはABCと進むためには、ABCというプロセスが必修だと思っているでしょう。だけど脳梗塞に関しては、AからいきなりCをやった方が、早いことがあるのよ」と、彼女は私の全てを見透かしたように言った。
その時の私には、本当の意味など理解する術はなく、この不自由な世界から、何としても脱出しなければならないと、一途に考えていた。
彼女は、他の患者にない私の「度を越した一生懸命さ」を見て、それがいつか壁にぶつかった時に生じるであろう、深い破滅感を予感していたのかもしれません 。
「AからいきなりCをやった方が、早いことがあるのよ」という言葉は、効率や順序を重んじてきた私の経験が、脳卒中の前では通用しないことを、思いしらされた瞬間でした。
リハビリは壊れたパーツを、順番に修理する作業ではなく、動かないなりに目的の動き(自分の意欲)を、脳にぶつけることで、脳が新たな神経回路をつなぎ直すことがある。
彼女の言葉は、段階的な努力に縛られていた私に、全く新しい視点という光を投げ込んでくれました。
つながる神経、変わる世界
自分の意思が伝わらない半身で、「最低限の生活が送れれば満足」だと、本気で考える方はないと思います。
しかし、やりたい意欲があったとしても、どうしたらいいのか、わからないから、諦めざるを得ないのが現実です。私も同じ壁の前で、躊躇することは多々あります。
彼女の「AからいきなりCをやった方が、早いことがある」という言葉は、現在も私の背中を押してくれています。
思えばできるというような簡単なことではなく、トライしなければ一生できない「諦めの人生」となるか、自分の情熱、努力、工夫によって、「自分らしさ」を手に入れるか、という選択です。
不思議なことに、自己実現できた時には、麻痺側はセラピストや医師が驚くほどの、機能改善が起きています。
私は、手がろくに動かない頃から、キャッチボールをしたくて、ボールを投げようとトライし続けてきました。その話をすると、専門家の殆どが、私の上肢を観察し、「投げるところを見せてほしい」と言います。後は、「すごい」の連発です。
時間がかかっても、脳はなんとかする。逆にもう使わなくていいとわかれば、機能が失われていきます。
ちょっと勇気を出して「AからいきなりC」をトライすると、体だけでなくて、心も元気になります。
衝撃の宣告
相変わらず必死に、どこか悲壮感を漂わせながらリハビリに励む日々。プライドを捨て切れず、人に弱みは見せまいと強がっている自分。
そこへ、ふらりと現れた、彼女が放った一言。「あなたの体もう終わったのよ。これからは健康のために生きなさい」、リハビリ室の喧騒を一瞬で消し去るほど、私の胸に冷たく突き刺さった。
しかし、彼女のまなざしは、信念と温かさを湛えているように、私には見えました。
私が受け入れるまでには、「元の自分に戻そう」と必死に過去の幻影を追いかけ、ボロボロになっている自分を自覚するには、時間と試行錯誤のプロセスが必要でした。
彼女のメッセージは「過去に囚われるな、前を向け」というエールではないかと気づきました。
新たな旅立ち
51歳の働き盛りである人間が、「終わった」と思えるには、これくらいの試練がなければ無理だったと思います。体育会的な肉体の追及や無理を重ねる生き方を、やめさせるためのお灸を、神様に据えられたのかもしれません。
元の健康な自分には戻れないと、諦めた瞬間。「新たな自分に生まれ変わる」、身体の再構築の旅へと進むという、自分の納得できる答えを、見つけることができました。
易疲労性:脳の疲労
リハビリは全力で、真面目に取り組んでいました。
しかし、終わったらすぐにベッドに、泥のように倒れ込んでしまうほどの、猛烈な疲労感に襲われていました。
私の周りの脳卒中患者に聞いても「そんなに疲れない」という方ばかりでした。
「きっと体力をつければ解決するはず」と当時は思っていました。
彼女がふらりと病室にやってきて「同窓会でね。私の友達が脳梗塞になったのだけど、半年くらいはとにかく疲れがひどくて、それが苦しかったって、言っていたよ」とさりげない世間話のように、穏やかに話していきました。
その時は、私のように疲れに苦しむ人もいるのだと、深く考えませんでした。
退院後に知る「易疲労性」の正体
リハビリ病院入院時は、なぜそこまで疲れるのかの理由がわからず、脳が疲れるという概念すら、ありませんでした。
しかし、退院後いろいろ調べると、脳の損傷によって起こる「易疲労性」という後遺症であることを知りました。
脳が新しい回路を作るため、フル回転でエネルギーを消費して、脳が頑張っている証だった。
彼女は、私がプライドで、弱音を吐かないことを見抜いて、第三者の話としてプレッシャーを与えないように、優しく重要な事実を伝えてくれたのです。
「疲れて当然なのだ」と教えてくれました。
重い鎧を脱ぐ
実はリハビリの過程で、私は麻痺のない良い方の左足を痛めてしまいました。リハビリすら満足にできなくなり、絶望した私は「もう退院させてほしい」と周囲に懇願したのです。担当スタッフ全員が猛反対する中、主治医である彼女だけは「この人は一度、一人にしてあげた方がいいかもしれない」と言って、退院を許可してくれました。
退院前日、左足の痛みでベッドに横たわっていた私のところにやってきた、彼女が何を言うかと思ったら「あなたは仕事をどうするか。今、決めなさい」と無表情で言い放った。
「そんな大事なこと、すぐ決められるわけがない」と言い返すと、さっと彼女は出て行った。
それまでも、担当セラピストから色々な提案をいただいたが、私からしたら、どれもこれも無責任な話ばかりでした。
私は妻と2人で、自動車を磨き、カーフィルムを貼る仕事を、30年近く営んできました。技術やフレンドリーなど、売り物に繁盛していました。
本当は、もっと前に、答えを出してなければいけなかったが、リハビリに逃げていたのかもしれません。
何のために働くか
お客様の期待に応えるために、研鑽を積み技術を磨き、その代価として代金を頂く。お客様は私を稼がせるために、来店するのではなく、「もっと自動車を輝かせたい」「大事に乗りたい」理想を叶えるために、当店を目指して来てくださる。
今、私の体はその資格はない。プロ根性に恥じないよう、廃業するのは当たり前だ。
「なんで、そんな簡単な答えを、すぐ出せなかったのだろう」。
彼女をよび「廃業します」と伝えたが、なぜか涙が出てきました。
もし、お客様のためにも店をどうにか続けたいという、不埒な思いがあったなら、その先には、心身ともに崩壊していく「不幸な人生」が待っていたと思います。
彼女の毅然とした態度には「自分の患者を守る」という、強い信念の現れだと気付きました。
自分の取扱説明書(トリセツ)
退院する私に向けて、彼女が最後に提案してきたのは、またしても私の予想を超える言葉でした。
「自分の取扱説明書(トリセツ)を、早く作りなさい」
この言葉は、私にとって非常に重く響きました。なぜなら、これまでの51年間で培ってきた自分の常識が一切通用しない、いわば「意味不明の体」になってしまっていたからです。自分の状態を真に理解し、受け入れないことには、取扱説明書など作れるはずがありません。
しかし、この不自由な体と共にこれからを「生き抜く」ためには、避けては通れない作業でした。彼女の言葉は、私が本当の意味で自分を見つめ直す、決定的なきっかけとなったのです。
トリセツ作りの実践は、試行錯誤の連続でした。
例えば、何かの作業をする時。かつての自分なら、半日かけてでも一気にやり遂げていたでしょう。
しかし、今の体でそれをやれば、エネルギーが枯渇して泥のように倒れ込んでしまいます。
そこで私は、「30分ほど集中してやったら、勇気を持ってそこでやめて帰る」ということを徹底的に繰り返しました。
もっとやりたい、かつてのように動きたいという焦りやプライドを抑え、あえて30分で切り上げる。それは、「自分はもう、普通の人間(これまでの自分)とは違う人間になったのだ」という現実を、身をもって認め、新しい自分の操縦方法を身体に覚え込ませていくプロセスでした。
終わりのない航海:トリセツのアップデート
この「自分の取扱説明書(トリセツ)」は、一度作ったら完成というわけではありません。むしろ、私の回復と人生のステージに合わせて、何度も書き換えていくべき「生き物」でした。
最初の段階におけるトリセツの目的は、徹底的な「排除と防御」です。とにかく日々の生活を立て直し、生き延びること。麻痺や易疲労性によって生じる苦痛や絶望を、自分の生活から少しでも排除するために、あえて行動を制限し、重い鎧を脱ぐためのルールでした。
それは、マイナスになってしまった自分を、なんとか「ゼロ」に戻すための作業だったと言えます。
しかし、人間の身体と脳には、不思議な底力が備わっています。
年単位の時間がかかり、気の遠くなるような思考錯誤の連続ではありましたが、諦めずに新しい自分を操縦していると、あるとき、ふと身体の奥底から変化の兆しを感じる瞬間が訪れるのです。「あ、以前はここで力尽きていたけれど、今の自分なら、もう少し先へ進めるかもしれない」と。
その小さな手応えを感じたときが、トリセツを「アップデート」する合図です。
これまでは「やってはいけない」と排除していた境界線を、少しだけ広げ、新しい挑戦の項目を書き加える。
このアップデートにおいて、最も大切にしていることがあります。それは、「他人から言われてやるのではなく、自分主導で、静かに始める」ということです。
医師やセラピストといった専門家は、安全第一で段階的なステップを勧めます。もちろんそれは正しいのですが、私の内なる情熱は、時にその枠を飛び越えたがります。かつて私が、手がろくに動かないうちから「キャッチボールがしたい」とボールを投げ続けたように、リハビリの教科書にはない、自分だけの挑戦を始めるのです。
周りの人には、私が何に挑んでいるのか、すぐには分からないかもしれません。ただの些細な日常の動作に見えるでしょう。
しかし、それは私にとって、自分の意志で人生の主導権を奪い返すための「静かなる反逆」であり、ワクワクするような冒険の始まりなのです。
そうしてちょっと勇気を出して「AからいきなりC」を試すたびに、トリセツは書き換わり、私の世界は少しずつ、しかし確実に、再び輝きを取り戻していきました。
手がかりへ導かれる
退院後も内科外来で、彼女は主治医として、不眠、易疲労性など入院時より悪化して、精神的に追い詰められる私を救ってくれました。その中で彼女が紹介してくれたのがジル・ボルト・テイラー著書「奇跡の脳」でした。
その内容は、傍から見れば、それは気の遠くなるような、あまりにもまどろっこしいアプローチかもしれない。一般の人にとっては、費用対効果の合わない「無駄な努力」に映る可能性すらある。
それまでのリハビリ現場では、「発症から半年以上が過ぎた障害は、もう良くならない」という話を、まるで変えられない決定事項のように、コンコンと説教じみて聞かされてきた。当時の私は、その言葉にただ暗澹たる思いを抱くしかなかった。
しかし、それが「事実ではない」ということが、この本を読んだ瞬間に完全に理解できた。
著者は8年という歳月をかけ、ほぼ元通りの自分へと奇跡的な回復を遂げている。しかも彼女は、かつての自分の内、激しかったり攻撃的だったりした部分は「もう必要ない」と潔く切り捨て、自らの脳の中に、新しく穏やかで平和な世界を構築していったという。
脳の可塑性が持つ、ものすごい力。
「自分も、これからの努力と工夫次第で、新しい自分をいくらでも創り出せる」
その事実は、私に震えるほどの勇気を与えてくれた。
30年近く、自動車を磨き、カーフィルムを貼る仕事に命を懸けてきた人間だ。ミリ単位の狂いも許されない世界で、技術を身体に染み込ませるために、どれほどの地道な繰り返しを重ねてきたか。
不自由になったこの身体を、もう一度コントロールする。
そのために必要な「圧倒的な反復」と「微細な感覚への集中」は、私の人生において「最も得意なこと」そのものだった。
過去の幻影を追う「攻撃的なプライド」は、私もここに切り捨てる。廃業を決め、職人としての舞台は失ったが、神様は私に「自分の脳と身体を平和に磨き上げる」という、人生最後にして最大の職人仕事を授けてくれたのだ。
彼女がくれた道標と、本が教えてくれた可塑性の光を胸に、私は再び、自分の意志で、終わりのない航海へ歩みを進めていく。
免許証を復活させる
私が脳梗塞で倒れたのは、2014年3月24日のことでした。その直後、運命のいたずらのように同年6月に道路交通法が改正されます。脳疾患などの後遺症を持つ運転者に対する規則が厳格化され、私もその対象となって免許証を返納せざるを得なくなってしまったのです。
免許を取り上げられる――それは身体の自由を失った私にとって、さらなる絶望の追い打ちでした。田舎町では、車がなければ日々の買い物も通院も、何一つ満足に生活が成り立ちません。移動の足を奪われることは、社会からの孤立を意味していました。
免許を復活させるためには、専門医による「運転に支障がない」という診断書が必要でした。
しかし、法改正があったばかりの当時、それは医療現場にとっても未知の領域です。もし診断書を書いた患者が事故を起こせば、医師側も責任を問われかねない。誰もがリスクを恐れ、筆を執りたがらないのが普通であり、当然の反応でした。
そんなある日、外来の静かな廊下で、彼女と偶然出会い窮状を訴えました。
「自分の足がこんな状態になってしまって、その上、免許証までないというのは、この田舎では本当に生活が成り立たないんです」
地方で生きる人間の切実な現実を、私は必死に説明しました。
私の言葉をじっと聞いていた彼女は、いつもの毅然とした瞳で私を見つめ、こう言ったのです。
「あなたなら、変な運転は絶対しないでしょう。……だから、私が書いてあげるわよ」
その一言に、私はどれほど救われたことでしょうか。
しかし、彼女は決して医師としての「感情」や「同情」だけで、その重いリスクを引き受けたわけではありませんでした。
彼女はすぐに、人間の認知能力や脳の機能を精密に測定する「CAT(標準高次動作性検査)」をはじめとした、厳格な適性試験を手配してくれたのです。数時間にも及ぶ過酷な検査のなかで、私の注意能力、空間認識、判断力が運転に耐えうるものかどうか、科学的なアプローチで徹底的に検証されました。
検査を終え、そこに示された確固たる科学的根拠(エビデンス)を確認したとき、彼女は「医師として、この患者には運転能力が備わっている」と確信に満ちた裏付けを得たのです。
前例がないからと周囲の医師が難色を示すなか、彼女はリスクを恐れず、しかしどこまでも冷静な医学的データに基づいて、一人の患者の「退院後の生活」を守るためのペンを動かしてくれました。
彼女が信じてくれた「あなたなら絶対に大丈夫」という言葉。
それは、机上の医療を超えた人間としての深い信頼と、医師としての完璧なプロフェッショナリズムが融合した、私にとって至高の道標(みちしるべ)でした。
そしてその診断書こそが、私が再びハンドルを握り、自分の人生の主導権を取り戻すための、大きな第一歩となったのです。
最後に:灯され続ける一筋の光
物語には、一つの区切りが訪れます。私の人生のキーパーソンであり、暗闇の中で行く手を照らし続けてくれた主治医(美人女医)ですが、一身上の都合による転勤が決まり、主治医の交代を余儀なくされることとなりました 。
伴走者を失うような一抹の不安が、なかったわけではありません。
しかし、彼女が私の中に灯してくれた情熱の火は、すでに私自身の力で燃え始めていました。彼女が私の人生の1ページに残してくれた数々のエピソードや教えは、決して消して忘れることのできない、私の血肉となっているからです。
壊れたパーツを順番に修理するのではなく、脳に意欲をぶつけること 。過去の幻影であるプライドを捨て、新しい自分の操縦方法を身体に覚え込ませていくこと 。そして、他人任せではなく、自分主導で静かに新しい挑戦を始めること 。彼女が授けてくれたこれらすべての手がかりが、私の心と身体を支える強固な土台となりました 。
免許証を復活させ、再びハンドルを握り、自分の人生の主導権を取り戻したあの日から、私の世界は再び輝きを取り戻しています 。
もし、かつての私のように、突然の病に自由を奪われ、リハビリの壁の前で絶望している方がいるならば、私は彼女の言葉をそのまま贈りたいと思います。「ちょっと勇気を出して『AからいきなりC』をトライしてみてほしい」と 。
先生と出会えた幸運に心からの感謝を捧げるとともに、彼女が信じてくれた「あなたなら絶対に大丈夫」という至高の道標を胸に、私はこれからも、終わりのない航海を、私らしく歩み進めていきます。

