たまに思い出す、あの日の出来事や昔のあんな事やこんな事・・・

あの日・・・

自営業を始めて、もうじき30年を迎えようとしていた平成26年3月24日朝、いつもの一週間が始まるはずだった。
洗濯物を干し終え家に入ると、私を呼ぶお父さんの声が何かおかしい。「トイレに行ったけどふらふらして力が入らない」と言っている・・・119番し救急車の到着がとても長く感じられたが、実際は近くに消防署があり、10分位で来てもらえています。
この時は、救急隊員の指示通り名前を言い、右腕は上げられたし、右足も膝を立てられていた。「搬送先は決まっていませんが、走り出します。」と病院を目指してくれました。後から年齢も若い、一分一秒でも早く処置をとの事で、素早い対応に感謝しかありません。
処置室に入った時には、右側はピクリとも動かないし、言葉もゆっくりでしか聞き取れない。脳のレントゲン写真を見ながら淡々と話すお医者さんの「脳幹のここが詰まっているね。白くなっているのは、以前も梗塞があったんだね。吐き気があるようだから吐き気止めの点滴をしています。で何か質問は?」その時は、命は助かっているのだから何とかなる位にしか思っていませんでした。
予約制の仕事だったので、お客様に事情を話しキャンセルにしてもらい、ひと段落してスマホで調べたら、脳幹って生きていく上で一番大事な所じゃない、お父さんどうなっちゃう?仕事どうしよう?お父さんは「一週間で戻るから待っていろ」って・・・
技術の仕事で、お父さんを信頼してきてくれているお客さん。二人の息子が「父ちゃんが治って仕事が出来るようになるまで頑張って店を継ぐ」と言ってきたけど、畑違いの仕事で苦労しても物になる保証はない。そんなリスクは負わせられない。
お父さんは、きっぱりと店を畳む決断をし、大家さんに返すことにしました。
趣味=仕事、頑固で真面目な性格ゆえに、いろんな意味で片時も目を離すことが出来なかった。24時間トイレ、お風呂も常に一緒について回っていました。幸いなことに二人の息子は成人して社会人になっていたので、日々の買い物や、借りていた店舗の片付けなど、とても頼りになりましたし、大きな支えでもありました。
本当に色々な方々にご迷惑をおかけし、助けて頂きありがとうございました。
自分を含め、誰しも自分は病気にならないと思いがちですが、いつ誰が発症してもおかしくないことを再認識致しました。

あの日・・・その2

心配するがゆえに掛けられた言葉で「何で一番そばに居たのに気がつかなかったの?」「前兆はあったでしょ?よくテレビでやっているよ」「若いのにかわいそうに」って・・・
かわいそうにという言葉は苦手です。何て返したらいいか分からないし、憐みの言葉に聞こえてしまって(あくまで私個人が思っているだけです)気持ちに余裕なんてありません。
そして一番忘れられないのが、お父さんが倒れたと聞いて見えた方が、開口一番にある団体への加入お誘いをしてきて、真面目な顔でその方の体験談を話し、いかに救われたか、あなたもぜひ一緒にって言われましたが、今まで一度もそんな話をされた事なんてない方です。もちろん丁重にお断りいたしました。
ほんの一部で、変わらず普通に接して、見守ってくれている方々がほとんどで感謝でしかありません。今まで何気なく口にしていた言葉が、相手の立場を考えた時に傷つけてしまっていたかもしれないと思うと、言葉には注意を払わなければいけないと思った出来事でした。

そうだったんだ・・気が付きませんで( ゚Д゚)

今日のお昼は寒かったので、温かにゅう麺に(^^♪ お父さんが退院したのが6月下旬の蒸し暑い時期だったので、素麺→お蕎麦→冷やし中華→冷やしラーメンの順番でたまにパスタ。
買い物に出られなかったし、お父さん麺類好きだから私としては野菜もたくさん入れて、とても気を使ってたつもりです。最近になって退院したての麺類は辛かったって・・・今更ですか???
箸の重ささえも大変なのに、麺をすくって口まで持っていくのはとても大変だったらしい(-_-;)
でも食事ごとに鍛えられたので結果的にはOK🙆ってことで。

あの日・・・その3

リハビリ病院を退院して、家での生活が始まりました。
お父さんの一日って起きてみないとその日の体調は分からず、夜は眠れないので目の下はクマだらけで顔色も悪い。体重も減り続けるし、食べるとトイレに直行。
まるで体の内部も麻痺しているかと思うほど・・・
アイマスクに耳栓は必需品。音や光に敏感でTVもつけられないし、高い笑い声も苦手。
二階のお父さんの寝室の真下がキッチンだったので、洗い物の音(お皿をプラスチックにしてくれと言われた)食材を切る音(まな板の下に台布巾を敷いて包丁はまな板までつけない)すべてが言い表せないほどの不快に感じていたようだった。
疲労感も半端なく少し動いただけでもハァーハァーな状態で、体温調節も出来なくていつも体は冷たいし寒がっている(元気な時は真冬でも薄着で、裸足なのにポカポカしていた)
必死に普通の生活を心がけ起きては来るものの、椅子に座っているのも辛そうで、リビングのソファーで横になっている時間が多かったかな。
その時期は退院した病院でのリハビリを受けていて、午前中は何とか持ちこたえている状態だったので早い時間のリハビリにしてもらっていたら、担当PTさんが「疲れているお父さんを診たい」と言ってきました。えっ???いじめですか???と思ったけど、何か解決策でもあるのかもしれないと期待をしつつ、次回のリハビリを午後にしたけど、変わらずいつも通りのリハビリでした。
何とか元に戻りたいとその時間は、一生懸命取り組んで言われたこと以上に頑張るから帰りの車中でのお父さんは、グッタリでした。
そして病院で受けられるリハビリの期限が近づいて来たときに、確認をするかのように「発症から6ヶ月過ぎると改善はみられなくなるのは分かっていますよね」って
どう受け止めていいのか、次にどこに行ってリハビリを受けたらいいのかさえもわからなかった。
PT・OTさんには、何もわからない状態だったお父さんを指導してくれ感謝でしかありませんが、ここまでになったお父さんを見てもらい少し認識を変えてもらえたらとも思ったりしています。

あの日・・・その4 お父さん車でリハビリへ

お父さんが倒れて1年2ヶ月経って、介護保険による通所リハビリに通っていた時の事です。週一回水曜日の午前9時~12時までの3時間、自宅から15㎞程離れた病院でしたので、車で送り迎えをしていました。というのもいつだって全力投球のお父さんは、帰りの車中ではすでにグッタリ状態なので、まだまだ心配で離れられなかった。
翌日の木・金・土曜日は、ほぼ疲れ切って朝もなかなか起きられず、全身筋肉痛ですか??状態なので、起きてから毎日一時間のマッサージが日課に。
日・月・火曜日は低いながらも通常モード、そして水曜日を迎える。まるでリハビリに行くための生活パターンですが、お父さんが回復する手がかりが何か一つでもあればいいんです。
そしてその3時間が私の自由時間にもなるので(^^)v
でも初代だいづ君が我が家に仲間入りして、小さくて後追いして一人でのお留守番なんて考えられないってことで、発症から3年2ヶ月でお父さん自力での通いになり、帰りは好きなラーメンを食べて帰って来るまでになっていました。(塩分とかって話は大目に(^_-)-☆)
急性期の病院を退院する時に看護師さんから「目に見えての回復ではなく、月単位・季節単位・年単位で必ず回復しますから焦らず、お二人で頑張って下さい。」と言われた言葉通りでした。でも本当にゆっくりで、お父さんは私以上にもどかしく感じていると思いますが、努力は確実に報われているのを感じます。

過去の出来事・・・

お昼にお父さんと焼きそばを食べていたら、ちょうど帰ってきた息子が「えっ!!それっておかずだよね。ご飯は??」いやいや・・・💦
わたしが嫁に来た時、何が驚いたかって・・・お勝手の流しの横に鎮座している、三升炊きのガス釜と保温ジャーの存在感の大きさ。その当時、義両親+お父さんの三人家族のはず・・・って事はおかずもたくさん食べるの?早々にご飯づくりを任命され、おマンマが体を動かすとも言われ、レパートリーなんて無い私はプチパニック。
朝二升近く炊いたご飯が、夕飯で見事に完食。どんだけ~~(ちなみにお昼は義母一人です)
焼きそば・スパゲッティ・焼うどんはおかずで、うどんはみそ汁代わり、豚汁やシチューは大鍋で食卓へ、揚げ物や煮物は大皿でドーンドーン。作るだけでお腹いっぱいに・・・(家計簿なんてつけてなかったけど、エンゲル係数すごかったかも)
今はお父さんと二人なので、朝2~3合炊いたら十分だし、夕飯もたまに晩酌をしながら、のんびりとおつまみ程度で野菜中心にいただきます。ちなみに炊飯器は5合炊きです(^_-)-☆

うどん事件

それぞれの家庭で「ごはん」と「おかず」の組み合わせは色々とあると思います。
私はサラリーマン家庭で両親と姉妹の四人家族で育ち、食はどちらかといえば細かったです。(あの頃が懐かしい・・・)
ですからうどんはメインでした。「汁物」だけど主食の「ごはん」の隣にはいません。
ある日、私が仕事から帰って夕飯の支度をしていると、「うちのうどんを作る。」と義母が隣で・・・
①大鍋にお湯を沸かし、大量の長ネギを切る(庭でたくさん作っていましたので約10本位)
②沸騰すると乾麺を入れグツグツと煮る。
③一本取り出し、食べ頃の柔らかさになると大量の長ネギを投入、醬油を入れまたグツグツと煮る。
④菜箸でかき混ぜ、ペロッと舐めて味を確かめる。
⑤そして大鍋のまま食卓にドーン。
お気に入りの乾麺があって箱買いをしていました。そして麵が長いからと半分に折り💦麺は茹で上がっても洗わない、もちろん冷水で締めないからコシはどこ???早く食べないとトロットロになり汁が見当たらなくなる💦💦新鮮な長ネギがたくさん入っているから風味は良かったし、何より義父が喜んで食べていました。でもそのうどんは「汁物」にしか過ぎません。
その他に「ごはん」と「おかず」はしっかりあったのは言うまでもありません(^^)v

カレー🍛事件

息子たちが小学生の頃、有難いことに結構忙しかったので土日も仕事の事がありました。
子供たちも大好きだし手軽なので、一週間に一回金曜日はカレー🍛の日。しかも大鍋でたくさん作って翌日も食べれるようにと(「おかず」はもちろん普通に作ります。)
仕事が終わって帰宅すると息子が「おらぁ、カレー🍛楽しみに食べようとしたら、じぃちゃんが・・・でもね食べたよ。」と  息子二人+義両親の四人で食べるには足りなかったんでしょう。
鍋肌に付いたカレーをこそぎ取り、お湯を適量以上入れたシャバシャバ状態のカレー風味のものが出来上がったらしい・・・
我慢と気遣いを覚えた息子たちでした。

あさり🐚

海のそばで幼い頃から漁師として育った義母の作る、あさりの味噌汁は美味しかった(^^)v
あさりが山盛りで、いいお出汁が出ていて初めて食べた時の感動は忘れません。
仕事から帰って来ると、大鍋に後は味噌を入れる状態でコンロの上にスタンバっていたのだけど・・・コンロの下がいつも水浸し・・・なぜ???
「貝の生煮えはおっかねぇ。あさりは三回吹きこぼさねっちゃいけねぇ。」だそうで(;一_一)
食べれる状態にしてもらってることに感謝しつつ、コンロの下をフキフキ。
あさりのかき揚げ、フライ、卵とじ、どれもとっても美味しいのにお父さんは、小さい頃から食べ続け「カレーにも入ってて、一生分食べたからもういい」と贅沢な発言をしています(^-^;

 

 

 

 

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