発症10年私の学び

はじめに

脳卒中によって、いろいろな障害を負った私にとっては、生活の全てが初体験でした。
健康な頃の経験は役に立たない上、起こる出来事も、弱者になったからとしか、思えないことも多々あり、私の心は打ちのめされ、傷ついていました。
とりあえずどうしたら、何とか前へ進めるか、答えが見つからず、途方に暮れる日々でした。
発症から10年というのは、長く険しい道のりでしたが、少しずつ障害も改善しつつあり、私に合った対処方法も、段々確立できたため、楽しく生きる又は、自分らしく生きる、自信のようなものを感じられるように、ようやくなりました。
しかし、人生が続く限り、この先何が起こるかなどわかりません。
脳卒中にならなければ、経験しなかった出来事や、会うこともなかった人々など、今は貴重な私の財産になっていると、感謝出来るようになりました。
これで完結などという気もありませんし、まだ人生が続く限り、時と共に変化するものだと思います。
私個人の体験記です、よろしくお願いいたします。

リハビリ

私はリハビリがなく、脳卒中で障害を負ったまま、自宅へ戻されてしまったなら、人間らしい生活など、送れなかったはずだと思います。
現在も身体の改善のために、自費リハビリに通っていますが、セラピストの知識や経験から得られるものは、私の改善には必要だと考えています。
しかし、発症から10年も経つので、いつかは、区切りをつけなくてはいけないと思っています。

私にとってのリハビリ

リハビリ病院入院中は、私は脳卒中の後遺症には全く無知で、セラピストに依存し、全て聴き洩らさず、絶対服従を貫きました。そして、同入院患者や看護師の様子や会話など、いろいろと私の人生に、大きな体験をもたらしてくれました。私が脳卒中後の人生を前進させる基礎になりました。
退院後は徐々にリハビリは縮小、そして打ち切りになってしまって、リハビリに救いを求めていた私は、途方に暮れてしまいましたが、「自分の人生のことは、自己責任だ。」と考え直し、ド素人の無茶なリハビリを、せざるお得ない時期もありました。
それから紆余曲折しながら、現在もリハビリとご縁が続いております。
その中で学んだことは、リハビリはしてもらうものではなく、自分の幸せのために望んで行うもので、後遺症のため諦めていたことを、ひとつひとつ取り返し、自分の納得いく人生にする術だと思います。自分の生活に直結していなければ、私にとって意味はありません。
そして私の障害はどのくらいまで改善するのか?私が知らない改善の方法がまだあると思い、巡り合うためにさまよっているという感じです。
そんな挑戦をいつまでも続けられるかは、私にもわかりません。

自分に合った課題

私にとってリハビリは、自分がしたいことや楽しいこと、多少の運動経験があること、自分や家族、友人などのためになること、自分にとって意味や価値がある事でないと、長い間モチベーションを保つのは無理だと思います。
セラピストから提案される運動などは、単調で、2~3日で飽きてしまうようなことが多いが、同じような効果が有りそうであれば、私が好きなようにアレンジし、日常の中で行えるようにしています。
セラピストも私が改善するのを見ることによって、満足して頂けるはずです。
楽しく生活することがリハビリになるうえ、誰かが助かるのであれば、一石三鳥や四鳥あります。そもそもノルマや嫌々やったって、リハビリになるわけがないと思います。
通所リハビリに、お世話になっている時に、同じ利用者数名にお聞きしたことが、「自宅でもリハビリをしますか?」と質問したところ、ほとんどの方が、「自宅ではしないよ。リハビリ室でだけ。」と答えていました。いろいろな理由があると思いますが、自分のしたいことと、リハビリメニューが合っていないのではないか?と感じました。したくてたまらないようなリハビリであれば、自宅だろうがどこでも、したくなるはずだと思います。

良くなると思い込む

「半年を過ぎると、もう良くなりません。」「今までは良くなったでしょうが、これからは難しいです。」「麻痺と言うのは治らないから麻痺と言うのです。」現実はとても厳しい。まるで悪い暗示を掛けられているようでした。
何のために辛いリハビリをしなければいけないのか?わからなくなります。
もう自分は不自由な身体から抜け出せないのか?不安でいっぱいでした。
それでも「何とかなるさぁ~」と自分を勇気付けるしか、いい方法が見当たらない時、根拠など無くとも、絶対良くなると言い聞かせていました。そう思わなければ、リハビリをする力が、湧いてきませんでした。
誰も私を信じてくれない以上、本人が自分を信じなければ、すべて成り立たなくなりそうでした。

出来ることとしていること

足は重力に逆らって立ち、形が悪かろうが歩かなければならないので、自然とトレーニングになります。
しかし、手は少し動くだけでは使い物にならず、イライラしそのうち忘れ去られてしまいがちです。手は自分の思い通り巧みに動くという、高い機能が当たり前だったので、その喪失感は強く、ネグレクトしたくなってしまいました。
しかし、手の回復には時間を掛け、少し動けばそれなりに日常で役割を持たせ、忍耐力、地道な努力が必要でした。
本当は良い方の手で行ってしまう方が早く、本人も楽なのですが、グッと堪え幼児に接するように優しく見守って、少し出来たら喜び、成長に感謝するという、穏やかな気持ちが大事でした。
毎日、日常で使ってあげないと、自分の手にはならないと思います。

両手を使うことの幸せ

私が両手で作業をこなせる喜びを感じ始めたのは、発症9年位掛かりました。
片麻痺で右側の体が思うように動かなくなって、いろいろな動きを邪魔して本当に疲れる、厄介な体になってしまったと、思わない日は無かった。発症間もない頃は、こんな邪魔な手を切って欲しいと、医師に言ったくらいです。
生活の9割くらいは、左手一本でもちょっとした工夫で、それほど困りませんでした。でも発症3~4年位から、いくら動きにくい右手でも、便利に活用すれば、少しずつ作業できる幅が増える。相当に不器用な手で、いろいろと気を使うことにも慣れてきました。
発症9年経っても、右手には運動失調が残っていますが、自分の手になった感が、段々強くなってきました。ゴルフなどは、健康な方と対等に楽しめる喜びがあり、そんな遊んでいる時は、運動失調のことを忘れています。
もしかしたら、普通なことが幸せなのかもしれません。

回復は続く

脳卒中の後遺症として残った障害は、半年過ぎると、もう良くなりませんと言われ、自分の前途に悲観し、自死を考えたりしました。
しかし、10年経った現在も回復は続いていて、自分の人生を有意義に楽しんでいます。
前向きに生活を立て直そうと、送っただけでも少しずつ楽になります。積極的に改善を意識し、リハビリを行えば、より納得した結果を実感出来ました。
人間にはまだ理解されていない可能性がたくさんあり、それを引き出してあげるだけで、良いと思います。
何より脳卒中前には、仕事やボランティア活動などに忙殺され気付かずにいた、そういうことが出来ない体になり、家族に迷惑を掛け、不自由な身体だから見えて来た、本当の幸せや大切なものに出会い、感謝の気持ちでいっぱいになっています。

意識

障害の質や大きさ、年齢など回復には大きな影響があると言われています。その事については、研究や議論されています。
しかし、本当に重要なのは本人の考え方やちょっとした意識の差ではないかと思います。
障害を克服しようと思えば、不自由な身体になっても、工夫や代替え手段などで生活を成り立たせる。
失敗を繰り返しても、自分の目標や目的を見失わない。
障害を負ったというマイナスなことも、良い経験をしたと気持ちを切り替える。
麻痺のメカニズムを積極的に理解し、トレーニングの意識の持ち方や内容によって効果が変わる。
脳卒中前の運動経験などから、不自由な体を上手く使いこなし、向上心を持ち続けることが出来る。etc
逆に、障害には抗わず、今の自分を認める。
やっと人生ゆっくりと過ごせると、全てから解放される。
不自由な身体でも、自分自身の本当の幸せを追求する。etc
少し極端なたとえかもしれませんが、本人の人生の価値観や幸せの形は、みな違うのは当たり前のことなので、他人がとやかく言えない部分があると思います。こうしたら正解などという答えは、複雑な人生においてないかもしれませんが、自分の納得いくことが大事だと思います。
自分にとって、最適な選択を繰り返した結果に、満足するしかないのも、人生なのかもしれません。

セラピストいろいろ

私は約10年間に20人以上のセラピストに大変お世話になりました。
PT、OT、ST、マッサージ師、柔道整復師、全ての方が国家資格を有しており、経験や知識などもしっかりとした方々でした。私はその方々から、色々なことを学ぶというよりは、盗むような気持で真剣勝負していました。その中で私が感じたことについて記したいと思います。

セラピストは私の先生

私が接したセラピストは、みな違う感じで、少し戸惑うことがありました。
人格や性格、人柄などは、人としての個性として当たり前だと思いますが、国家資格を有している人が、私に対するアプローチや考え方、脳卒中の後遺症にどう対処するのかなど、担当者が変わると、その方のペースや対応の仕方、どんな基本的な考え方を持っているのか、探り慣れるまで、私はその方とどんなコミュニケーションを取ると、関係が上手くいき、私を改善へ繋げることが出来るのか、そのセラピストと波長を合わせるのに必死だった。
体育会系のノリで筋トレのような運動療法中心の方、不自由な事への代償手段中心の方、テーピングや電気治療や物理療法中心の方、マッサージなど中心の方、伝えるのが苦手なのか、私の頭が悪いのか、私に何をしたかったのかわからない方、手技にしても個人差が大きく効果を感じる方や触っているのかよくわからない方、ボバースとかPNF、いろいろな療法etc.どんなセラピストも得意なことも、その人だけが持つ感覚的なことや人間性などがありました。
私はその人達と良好な信頼関係を築くことと、その人のモチベーションを引き出し、私の改善につなげるよう、私もアドバイスされたことは、一生懸命取り組みました。それでもホームランのような改善は無いので、コツコツと焦らず、なるべく楽しむように現在も徹しています。

他人もセラピストも変えることは出来ない

私がリハビリを続ける目的は、脳卒中の後遺症を改善させるためですが、そうゆうことには後ろ向きな方、偏見を持っていて、どうしても互いのためにならない場合もありました。
すぐにわかる場合もあるが、時間が掛かってから判明する場合もありました。いずれにせよ、関係がギクシャクしてしまって、上手く行きませんでした。
そんな時は大好きなリハビリに失望し、冷たい心に触れて悲しくなったりしましたが、私のモチベーションまで奪われるのは、もっといけないと思い、その方からは離れるように致しました。
そこで相手のために何かを伝えようとする力は、脳卒中後の私には、人に影響を与えることはできなくなったと、はっきりと気付いていました。
むしろ新たなセラピストとの良いご縁に、希望を繋いだ方が、今の私には重要でした。

公的保険と自費リハビリ

公的保険で受けられるリハビリは、医師の指示のもと、安全で適切に私の為に行われ、1~3割の費用負担で、私にとっては守られている感じで、ありがたかったです。
セラピストも病院や施設の方針、健康保険や介護保険制度の中で患者の為に、精一杯頑張ってくれます。しかし、色々な制約があり、私個人の希望を全て満たすことは、色々な意味で不可能です。
更なる改善を求めて、自己責任を承知で、自費リハビリにトライ致しました。
自費リハビリと言っても色々で、医師の指示書があれば、健康保険が適用になる所から、まったく効かない所もあります。私の主治医は評価が低く、指示書など論外でした。そういう医師が多いことも知りました。
インターネットで探すのですが、自動車や電車で、2時間以内で通えるところで、親切そうで、技術や知識がありそうな所は数多く出てきます。費用も1時間当たり12000円から20000円位します。それぞれの自費リハビリのホームページを見ると、どれも個人の希望に適したアプローチを丁寧に致します。というようなことを書かれていて、特別な差などがわかりません。店舗を構えたプロであり、ある程度高い料金を取るので、一定水準を超えているだろうから、大丈夫であろうと思っていました。
発症8年6ヶ月頃に行った自費リハビリは、同世代のOTで、合計7回行きました。私がお世話になったセラピストの中で最低な方で、私の要望にはあまり沿ったセラピーは行わないで、自分が用意した事を勝手に行い、私の質問に対しても、煙に巻いてしまうような答えばかりで、利用者を見下した態度。前回行った運動療法に対し、私が上手く行かないことや、痛みが出ていると申しても無視、全く繋がりがないことを繰り返す。自分はボバースで日本一のセラピストだと言ってのける。
何か良い所があるはずだと考えて続けてみたが、気持ちの悪さしか残らなかった。そのセラピストも私とは合わなかったが、誰かの為になっているはずです。
今も別の自費リハビリに通っていますが、私に合っているセラピストにようやく、探し求めて巡り合ったと、感謝いたします。
公的健康のリハビリは、安心安全で穏やかな時の中で、自分を見つめ直すのに必要だと思います。
自費リハビリは、自己責任という事を自覚し、目的がはっきりとお持ちの方に、向いていると思います。
どちらも担当するセラピストの人間性や能力などで、左右されることは間違いなさそうです。

不本意

脳卒中後の生活の中で、自分が前向きに生きようとしても、立ち止まりどう対処したら良いのか?私としては不本意なことが、多々起こりました。根本原因は脳卒中になった私自身にあると思いますが、大病や大ケガをしただけで、それ以外に社会的なハンディまで付きまとう事実に、違和感がありました。同じような出来事でも、感じ方は皆違うでしょうが、参考になればと思い記してみます。
もしも、不快を感じる方がいたならば申し訳ございません。

障害受容

障害受容の定義とは、「障害受容とは、諦めでも居直りでもなく、障害に対する価値観の転換であり、障害をもつことが自己の全体としての人間的価値を低下させるものではないことの認識と体得を通じ恥の意識や劣等感を克服し、積極的な生活態度に転ずること」だそうです。
私が聞くときはほとんどの場合は、セラピストの提案に対して私の希望が合わず、私をたしなめる目的で、「障害受容出来ていないダメな患者。」という言葉で、私そのものを否定する意味として伝わりました。
例えば発症半年過ぎた頃、OTから「あなたの障害はもう良くなりません。利き手変換しましょう。」と言われ私は、「もうすでに左手一本で生活出来ているのに、いまさら左手に何の訓練ですか?それより動かない右手を訓練してください。」と答えた時、顔が曇りボソっとその言葉が投げかけられました。
他のセラピストからも私が、障害を克服したいと伝えた時など、「障害受容」の話がありました。自分の回復に希望を持つことを、否定されるように感じました。
私にとっての障害受容とは、そう簡単に出来ることでなく、相当な時と覚悟が必要だった。もしかしたら現在は受容出来ているかもしれないが、いつからかは分かりません。
セラピストから押し付けられるものでなく、自然に自分が気付くことだと思います。

偏見

脳卒中に対する偏見と言っても、内容や質も様々で、社会的なものや個人的なもの、セラピストや私自身の中にもあります。色々なブログから、他の病気でも偏見によって悩ませられているという記事をよく見ます。
誰でも無知からくる思い込みや決めつけによる、ネガティブな認識や行動に接したら、憤りを感じます。私自身も反論する気力もなく、言われるがままジッと耐えているだけですが、そういう環境から遠ざかり、なるべく聞かないようにしています。
偏見をなくす社会の取り組みがあるのは知っていますが、現在なくならない以上、私の心が荒まないようにするしかないと思います。
発症10年も経つと色々な要因もあると思いますが、少しずつ耳にする機会は減りました。

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